夢幻台
ユーザー
>たしか「最初は短編から」というのの是非を問う議論がありましたが
>エターなったりめちゃくちゃな作品を作らずにちゃんと短編から始める人って
>そんなにいるのか疑問に思いました。
恐らくですが、学校の授業などでゲーム制作を教えるとするならば「まずは短編から」を教えると思います。
漫画とか作文とかでもそうだとは思いますが、それがセオリーとしてある程度確立しているからと考えます。
もちろん趣味で作るゲーム制作は授業でも無ければ必修でも無いので「好きに作っていいし、完成が全てではない」と思います。
ゲーム作り「ごっこ」を楽しんで、楽しむだけ楽しんで終わり、というのも十分ツクールを使った遊びとして成立しています。
自分は完成にこだわる派ですが、それが露骨になったのは(偶然にも前のコンテストの話題の続きとなりますが)コンパクで受賞して、
次の作品を作るようになってからでしょうか。=「待ってくれているユーザーさんがいる」ことを強烈に意識し始めてからです。
個人で作っている分には自分で作って、自分で辞めて、自分で嫌になってでいいと思うのですが、ネット上で制作状況を公開するとなると
話は変わってきます。もちろんそれでも制作中止は制作者さんの自由、と言いたいところなのですが、待っている側からすると
「期待して待ってたのに…どうして!?」という気持ちは少なからず起きます(少なくとも自分は起きました)。
長編の方が挫折率が高い、待たせる時間も長くなりやすい、挫折した時に与えるガッカリ感も半端ではない、という観点からすると
リスク管理の観点から考えてもやっぱり短編から始めた方がリスクが少ない、というのはあります。
ちょっと大げさかもしれませんがネットで公開する以上「相手は世界」。
「オレ、ゲーム作ってるんだぜ~」→「へ~できたらやらせてよ」→「うん、約束する」と友だち同士で話していて
「作ってるゲームどうなった?」→「ごめん、完成しなかった」→「え~、何で!楽しみにしてたのに!」というやりとりを
世界中の相手とやっている感覚…と自分は認識しています。
蛇足かもしれませんが、以前のスレッドでも書かせていただいた持論を再掲載します。
「期待するほど自分のゲームは見てくれてない。でも、油断していいほど見てなくもない」
反応が無くても見ている潜在ユーザーは結構いると思うので、その期待に応えてあげるのも長編制作には必要なのかな…と。
>エターなったりめちゃくちゃな作品を作らずにちゃんと短編から始める人って
>そんなにいるのか疑問に思いました。
恐らくですが、学校の授業などでゲーム制作を教えるとするならば「まずは短編から」を教えると思います。
漫画とか作文とかでもそうだとは思いますが、それがセオリーとしてある程度確立しているからと考えます。
もちろん趣味で作るゲーム制作は授業でも無ければ必修でも無いので「好きに作っていいし、完成が全てではない」と思います。
ゲーム作り「ごっこ」を楽しんで、楽しむだけ楽しんで終わり、というのも十分ツクールを使った遊びとして成立しています。
自分は完成にこだわる派ですが、それが露骨になったのは(偶然にも前のコンテストの話題の続きとなりますが)コンパクで受賞して、
次の作品を作るようになってからでしょうか。=「待ってくれているユーザーさんがいる」ことを強烈に意識し始めてからです。
個人で作っている分には自分で作って、自分で辞めて、自分で嫌になってでいいと思うのですが、ネット上で制作状況を公開するとなると
話は変わってきます。もちろんそれでも制作中止は制作者さんの自由、と言いたいところなのですが、待っている側からすると
「期待して待ってたのに…どうして!?」という気持ちは少なからず起きます(少なくとも自分は起きました)。
長編の方が挫折率が高い、待たせる時間も長くなりやすい、挫折した時に与えるガッカリ感も半端ではない、という観点からすると
リスク管理の観点から考えてもやっぱり短編から始めた方がリスクが少ない、というのはあります。
ちょっと大げさかもしれませんがネットで公開する以上「相手は世界」。
「オレ、ゲーム作ってるんだぜ~」→「へ~できたらやらせてよ」→「うん、約束する」と友だち同士で話していて
「作ってるゲームどうなった?」→「ごめん、完成しなかった」→「え~、何で!楽しみにしてたのに!」というやりとりを
世界中の相手とやっている感覚…と自分は認識しています。
蛇足かもしれませんが、以前のスレッドでも書かせていただいた持論を再掲載します。
「期待するほど自分のゲームは見てくれてない。でも、油断していいほど見てなくもない」
反応が無くても見ている潜在ユーザーは結構いると思うので、その期待に応えてあげるのも長編制作には必要なのかな…と。